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神葬祭と祖霊の祭祀

人間は単に肉体だけの存在では無く、魂魄(こんぱく)、つまり目に見えない霊魂と肉体である魄(はく)とで構成されています。

肉体が死を迎えると、誕生以来霊糸線によって肉体と繋がっていた霊魂は凡そ24時間で肉体から離れます。そして魄としての肉体は火葬されて遺骨となってお墓に埋葬され、霊魂は御霊(みたま)として神道式では祖霊舎(みたまや)で祀られることになります。

魄としての肉体は死後火葬により遺骨だけとなっても、また土葬により腐敗消滅しても、霊魂だけは肉体から離れて存在し続けます。

そして肉体から離れた当座の霊魂は非常に荒々しい状態であり、このような霊魂すなわち御霊は、放置すれば山野に盤鋸して激しく祟りを為し、逆に鄭重に鎮め祀ることで次第に鎮まりまして、やがて一年祭を迎える頃には子孫を守護して下さる祖霊となられ、百年祭の頃には氏神となられるのです。

特に帰幽後一年祭を迎えるまでの御霊は特に荒々しい為、鄭重に鎮め祀ることが大切です。

このことから神道に於ける神葬祭並びに祖霊祭とは魂鎮(たましず)めのお祀りであると言えます。

現世(うつしよ)に生きている者が幽世(かくりよ)の御霊を鄭重にお祀りして呼応し合う事で、祖霊は子孫を見守る存在となっていくのです。

帰幽直後の御霊を神葬祭で、その後は祖霊として毎年のお盆やお彼岸と云う年中行事や式年祭(祥月命日)を通して鄭重にお祀りすることが我が国の伝統的な祖先崇拝の形です。

特に一年祭・三年祭・五年祭・十年祭・二十年祭・三十年祭・四十年祭・五十年祭・百年祭以降百年毎の年祭を鄭重に行う必要があります。

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主要参考文献

「家庭の祭祀事典」西牟田崇生編著 国書刊行会

「神事の基礎知識」藤井正雄編・著 講談社

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神葬祭の流れ

会葬者の心得

会葬の心得

通夜祭・葬場祭に参列することを会葬と云います。

会葬の心得として、弔問者は出来るだけ正式の喪服で会葬することが望ましいでしょう。

受付けで記帳し、玉串料を差し出します。表書きは「玉串料」「御榊料」又は「神饌料」のいずれかにします。

神式では通夜祭、葬場祭に限らず祭儀の前に基本的に清めの手水を行います。多くの場合、受付けや斎場入口に用意してありますので、手水を行ってから斎場に入ります。

斎場に入ったら、先ず遺族にお悔やみの言葉を申し述べます。

通夜祭・葬場祭の席次は予め決めてありますので、会場係の指示に従って着席します。

通夜祭・葬場祭では仏式の焼香に当たる、玉串奉奠(ほうてん)が行われます。

その際の二拝二拍手一礼の拝礼は、「しのび手(両手を打つ手前で止め、音を立てない拍手)」で柏手を行います。

参列者が大勢の場合は拝礼だけの事もあります。

玉串奉奠、拝礼の後は喪主、遺族へ一礼してから退出します。

直会(なおらい・通夜振る舞い)は弔問に対するお礼と清めの意味でもてなされます。招かれた時は辞退せずにお受けします。退席する時には喪主への挨拶を忘れない様に静かに辞去します。
(1)通夜祭

通夜祭は主に近親者や故人と特に親しい関係にあった人たちが集まって営まれます。

しかし遺族から通夜祭の時刻を知らされた場合には、通夜祭への参列を請われたと考えて万障繰り合わせて参列することが望ましいと云えます。

帰幽の知らせと葬場祭の日時のみを告げられた場合は、告別式への参列だけに留めるのが一般的です。

一般の通夜祭の参列者は祭儀の始まる十分くらい前に着く様に心がけます。

2)葬場祭

葬場祭に招かれた場合、通夜祭と同様に受付で記帳し、手水を受け、指示に従って着席します。

会葬者は通夜祭同様玉串奉奠、拝礼を行います。

出棺前にご遺体との最後のお別れが行われますので、故人と特に親しかった会葬者はご遺族に続いて別れ花を柩に納めます。

火葬祭・埋葬祭の心得も同様です。

3)御霊祭(みたままつり)

御霊祭は葬儀の翌日に葬儀が無事済んだことを霊前・墓前に奉告する翌日祭から、帰幽した日から数えて十日目に営まれる十日祭、以後十日目毎に二十日祭、三十日祭、四十日祭、五十日祭と続きます。

そして五十日祭以後は、百日祭、一年祭、三年祭、五年祭、十年祭と続き、以後は五十年祭まで十年目毎に行われ、その後は百年祭と、二百年祭と百年毎に年祭が続きます。

これらの御霊祭の中でも、五十日祭、百日祭、一年祭、三年祭、五年祭、十年祭は特に重要な祭儀ですから、鄭重に盛大に行われる必要があります。

これらの御霊祭は霊前・墓前の両方で行われるのが本義です。

御霊祭の後は故人を偲びながら自宅や料理屋で直会を行います。

御霊祭への案内を受けたら出欠の返事はなるべく早く出すようにしましょう。

服装は五十日祭を過ぎたら派手な服装でなければ特に喪服を着用する必要はありません。

その都度、「御榊料」あるいは「御供物料」を持参します。

1.神葬祭

近年、葬儀の在り方、先祖の祀り方について様々な考え方が現れてきて、日本の伝統的な祖霊信仰から逸脱し、現代人の勝手な解釈で葬儀が行われたり、祖霊のお祀りを簡略化あるいは放棄しているケースがしばしば見受けられます。

葬儀の方法や先祖の祀り方はその地方独特の慣習などがありますので、一つの方法を固定的に決めつけることは出来ませんが、伝統文化として引き継がれてきている形であるならば問題の無いことと思います。

いずれにしても人の生命は悠久の時代の神々や祖先から戴いて受け継がれてきたものであり、人が身罷(みまか)った時にはその御霊(みたま)はそれぞれの祭儀を通して鎮め奉ることで祖先の許へ導かれて祖霊の一員となり、やがては氏神様となられます。

また遷霊(せんれい)祭によって霊璽(れいじ)・御霊代(みたましろ・仏式での位牌に相当する)に故人の御霊が遷され、やがて祖霊舎(それいしゃ・みたまや)に祀られ、祖霊の一員となられて子々孫々の繁栄と幸福を齎(もたら)す見守る神となられます。

人が誕生する前の安産祈願に始まり、誕生後の初宮など人生の折々に行われる人生儀礼の中で、その最後を飾る最も大切な儀礼が「葬儀」であり、神道の形式に則って行われる葬儀が神葬祭です。

神葬祭は天神地祇(あまつかみくにつかみ)を対象とした敬神の祭祀ではなく、故人(死者)を対象とした先祖崇拝の祭祀です。

江戸時代に伊勢豊受大神宮の祠官(しかん)であった中西直方(なかにしなおかた)は、次のような歌を詠んでいます。

日の本に生れ出でにし益人(ますびと)は 神より出でて神に入るなり

この世の私達は元々神から生れ出たのだから、死によって神の御許に帰っていくのだと云うことです。神道の死生観は日本独自の信仰として育まれてきた先祖観を生成発展の産霊(むすび)の信仰で説明するものです。

神葬祭の本義は産土神(うぶすなのかみ)の御許に帰る帰幽奉告の儀から始まり、故人の御霊を亡骸から霊璽に移し、仮祖霊舎に安置する遷霊祭を営み、葬儀の後は翌日祭、十日毎の5回の毎十日祭が霊前、墓前でそれぞれ営まれ、忌明けの五十日(いそか・いか)祭、あるいは百日(ももか)祭、一年祭に清祓の儀を行い、仮祖霊舎に祀ってあった霊璽を祖霊舎に合祀(ごうし)し、一年祭までの間には新御霊祭(あらみたまさい)・新盆祭あるいは春秋の彼岸の霊祭を営み、先祖累代の祖霊に対し子孫である我々が、追慕追遠の誠心を捧げて孝敬の誠を致すのが慣わしとなっています。

帰幽奉告祭から始まる一連の神葬祭の祭儀は、一年祭を迎えるまでの間、死後直後の荒魂(あらみたま)を数々の葬送儀礼で鎮め祀り、節目節目のお祀りを鄭重に執り行う事で荒魂を鎮めに鎮める為に営まれる祭祀です。

一年祭までの間の御霊は常世や黄泉の国に帰ろうとも、いつ祟り神に転じるともわからない不安定な御霊である為に、数々の祭祀を鄭重に執り行う事で少しずつ鎮まって頂き、一年祭、三年祭、五年祭と年祭を営み、且つ又、正月、盆、更には春秋の彼岸の霊祭によって御霊を鎮め祀ることで、

やがては和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)となし、百年祭に至っては奇魂(くしみたま)となして神上がられ、氏神様となられるのです。

2.神葬祭の歴史

葬送の儀礼や祖先崇拝の考え方は、現在では仏教が主流となっていますが、日本民族固有の葬儀は記紀に覗う事ができます。

最古の記述としては『日本書紀』巻四「神出生章」伊弉冉尊を紀伊国熊野の有馬村に葬(かく)し奉ったことを

「土俗(くにびと)、此の神の魂を祭るに、花(はなある)の時には、亦花を以て祭り、亦鼓吹幡旗(つづみふえはた)を用て、歌ひ舞ひて祭る」

と記述されています。

口語訳:いざなみの命が、海の神 風の神 山の神 野の神、三十五柱の神をお生みになり、中でも火のかぐつちの神(火の神)をお生みになったことによって、ついにおかくれになりました。そして今の三重県南牟婁郡と伝えるところに葬った。土地の人はこの神の魂を祀り、鎮めるために、花の時期には花を、また秋には収穫した穀類を、更に海の物 山の物などをお供えし、楽器をならし旗を立て歌舞いをして、命の御心を慰め鎮めました。

また『古事記』には天若日子(あめのわかひこ)の葬送について

「喪屋(もや)を作りて、河鴈(かわがり)を岐佐理持(きさりもち)とし、鷺(さぎ)を掃持(ははきもち)とし、翠鳥(そに)を御食人(みけびと)とし、雀を碓女(うすめ)とし、雉を哭女(なきめ)とし、如此(かく)行ひ定めて、日八日、夜八夜を遊びたりき」

とあります。

口語訳:そこにお葬式のための仮小屋の喪屋を作って、川辺にいる雁を死者の食器の係りとして、鷺を葬儀場の掃除の係りとし、翆鳥を食膳の係りとし、雀を米つき女とし、雉を泣き女とし、その役割で葬儀を行うものときめて、八日の間、夜を日についで歌い舞うわざを営みました。

これらの古典の記述からも我が国に於ける葬送の儀礼は、神代の時代から連綿と続いてきたことが分かりますが、仏教伝来と共に奈良時代以降、葬祭の儀礼は僧侶に委ねられ、更に江戸時代になると寺請制度が施行されたことから、庶民の葬儀は殆どが仏葬一辺倒となってしまい、いつしか葬儀と言えば仏式と云うのが半ば常識のように考えられるようになってしまいました。

その後明治元年三月に「神仏分離令」が発せられ、同年四月十九日神道事務局は諸国の神職に対して、これまで神職及びその嫡子だけにしか認められなかった神葬祭を家族全員に改めるように通達を出し、更に明治三年から四年にかけて神葬祭を一般に至るまで自由に行いたいとの願い出が諸藩に受理されて、全国的に広まっていくことになりました。

このようにして官幣社・國弊社の宮司以外は神職が氏子に対して自由に神葬祭を執り行う事が出来るようになり、更には戦後国家神道が廃されて以降は、神社はすべて宗教法人となったことで凡ての神職が神葬祭を執り行う事が出来るようになりました。

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